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250km圏内
プロジェクト:ゲキジョウはゲンロンのバ『妻とともに』

蘆薈


演出・出演|小嶋一郎
共同創作・出演|黒田真史

文・小谷彩智






『妻とともに』撮影:渋革まろん




 彼女は、現れる。こちらまでやって来ると、何もない空中を見上げる。

 あまりにも無邪気に、一心に見上げるものだから、何かあるのか、何かいるのかとわたしもそこを見るけれど、なにも見えない。彼女と同じものを見ようとするけれど、何もない。
 彼女はゆっくり語る。自分の身体をゆっくりと操りながら。語られるのはアロエのこと。植物のアロエ。それが彼女のあたまの中に残っていることなのだろう。その色合い。その質感。汁が垂れる様。干からびて垂れ下がる先の部分が、それでも胴体に、太い幹につながっているという細部。彼女の感覚に訴えたのであろう光景。
 横たわった彼女の傍には、男性のものと見られる茶色いコートがある。枯葉色。それを彼女が拾い上げてはじめて、わたしはその存在に気付く。そのコートは劇中で彼女の夫の役になる。

 舞台上に演じられるたったひとりの登場人物である彼女自ら語るのは、アルツハイマー病に侵されていく自身の経過だ。蝉の声と街の喧騒が混じり合う7月。彼女は施設に入所する。
 「ノンフィクションをもとにしたフィクション」という本作は、「妻を介護する夫」が書いた介護記録をもとに、「介護される側」の妻の視点で物語が進む。
 物語かといえば、言葉がそれほど語られるわけではなく、淡々と、記録するように、彼女は日付と事実を述べる。入所日。施設での生活。食事の時間。回数。それを介助しにやって来る男性。自分の夫。
 ふたりは散歩をする。歩く。夫は妻に聞く。施設での暮らしはどうか、と。彼女は「とてもいいよ」と答える。やさしく。おだやかに。それは薄っぺらに互いを思いやるふりをするための嘘などではないことが、彼女の発する空気からわかる。
 彼女は満足している。日に二回、夫が食事の介助をしに来ることに「私はとても満足していた」と言う。自分が施設に預けられていても、他のことは専門のスタッフに任されていても、病に罹っていようがいまいが、彼女の知っている、ささやかな幸福感が伝わってくる。
 しかし病は進行する。入所の次の年に発作が起き、その三ヶ月後に起きた「五回目の発作」で彼女は言語を失うことが語られる。「やあ」と「あうあ」としか話せなくなり、視覚、聴覚も急速に衰える。

 舞台上の彼女が言語を失うことでわたしに見えてきたのは、舞台後ろに天井から吊るされた文字の存在だ。「ようご ほうむ にて」「ほっさ」「あろえ」とある。それらの言葉が宙に浮かんで色彩を帯びているのに対し、その下には白く灰になったようなひらがなが落ちて、散らばっている。わたしたちが見ているのは一段上げられているが四角く区切られている舞台だ。流れ続ける外界のざわめきに、少しの変化はするが常にうすぼんやりと暗く、それ以上は明るくならない照明。
 そうだ、これは、彼女の脳内で、後ろの文字は、この空間は、彼女が必死に、自分のなかにつなぎとめようとしている彼女の「世界」なのではないか。

 舞台上の彼女は、完全には忘れてはいない。発作の回数も、その日付も、そのときの周りの様子も、自分が失われていく様がこわくてかなしいことも、「自分で」語られる。彼女の言葉と、彼女の身体で。

 ゆっくりとした動作と決して言葉の多くないこの作品に、わたしがこんなにものめりこんでしまったのは、演じられる彼女の存在感が、愛しいものだったからだ。
 なぜ観客が、舞台上の人物にそう感じるかというと、だれより演じる役者自身がその「役」を愛しているからだと思う。
 自分とはちがう、ひとりの人物を演じようとすれば、まず、「自分」と「役」を切り離さないといけない。自分とは別の、ひとりの人間について考え、想像し、だれよりもそのひとのことを知ろうとする。それが「役作り」ではないか。そこに「わたし」を織り交ぜることはあるし、舞台に立つのも、使う身体も、結局「わたし」なのだけれど、どこまでも、いつまでも「わたし」を手放さずに居られると、ただそのひとの自己主張だけが目立って、ひたすらそのひとの自分というブランドを見せつけられている感じがして、興ざめすることがある。セリフが少なく、身体を使う作品ならなおさら、そういった役者自身の「作業」があったのか、無かったのかが透けて見えてしまう。
 密度のある生きた演技とはこういうものだというのを、思い出させられ、その余韻にとても心が動いたのだ。

さいごに彼女は枠の外に出ると、歌をうたう。灰になった言葉を踏みながら。たどりついたさきで彼女は言う。
 わたしは、聴覚も、視覚も、言語も失ったが、自身の身体は早急に死が迫っていたり、管に繋がれるような処置をされているわけではない。呼吸をし、消化をし、適切な介助があれば、生きていくことができるのだ、と。
 ここではじめて、彼女の、病によって己が失われていく恐怖が頂点に達し、介護の現実が混ざって爆発したように感じた。

 そこでぷつりと作品はおわった。
 「ゲキジョウはゲンロンのバ」と掲げる250㎞圏内の公演には、その後、観客同士で意見を交換したり、感想を言い合ったりする時間がもうけられた。
 近年、上演後にこういう時間が取られる公演が稀にあり、わたし自身、参加してみたことはあるが、ほとんど結論が用意されているような空気で楽しめないことがある。
 ただ、あの場所では、残った観客が、この作品を観て自分のうちに生まれた、言葉にならない感情を自分のなかで放置しないよう言葉に起こそうとしていたり、わたしのように、ニュースに取りあげられるような視点から「介護問題」を取り扱うことを苦手とするものでも、発言したくなり、最終的にはその「社会的視点」にたどりつけそうな気がして、とても意義のある時間だったと思う。
 なんとその後さらに、演出の小嶋氏のアフタートークショーまであるのだが、彼は必ずしも「社会問題の提起」としてだけに「介護」を取りあげたわけではなく、それは「介護する側」ではなく「される側」からの視点でつくられたこの作品を観れば解るような気がするが、本当に、純粋に、「演劇のための言論の場」を自ら欲しており、それを体現しているのだなと思った。

(2016年12月26日掲載)

小谷彩智
劇作家。近畿大学芸術学科演劇芸能専攻卒。大学では主に役者として演技について学ぶ。母校である鴨沂高校の校舎建替問題を題材に執筆した「S.」が2014年京都演劇フェスティバルで上演された。
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アトリエ劇研創造サポートカンパニー|250km圏内

プロジェクト:ゲキジョウはゲンロンのバ
『妻とともに』

演出・出演|小嶋一郎
共同創作・出演|黒田真史




日程
2016 年12月3日(土)〜12月4日(日)


12月3日(土) 14:00-
12月4日(日) 14:00-




・トークイベント「劇場とはどういう場所なのか」
12月3日(土)16:00- (無料)


・ワークショップ
12月4日(日)19:00- (無料)

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