HOME > CRITIQUE > 2015CRITIQUE > CRITIQUE/あごうさとし

あごうさとし『純粋言語をめぐる物語-バベルの塔Ⅱ-』


『バベルの塔Ⅱ』―空転する「純粋言語」を巡る言語の織物語り

作・演出|あごうさとし
テキスト|岸田國士/「紙風船」「動員挿話」「大政翼賛会と文化問題」

文・山﨑美穂

純粋言語を巡る物語-バベルの塔Ⅱ-2015年/ アトリエ劇研©井上嘉和/Yoshikazu Inoue


あごうさとしの手になる『純粋言語を巡る物語バベルの塔Ⅱ』を観たのはもう1週間ほども前になる、そしていまだに私は何も整理ができていない、だからこそ書いてみるべきなのかもしれない。
多すぎた、とても多かった。削ぎ落とされているのはただ舞台装置ばかりで、実際には飽和点を過ぎていた(それは―私事で恐縮だが―自分自身の写真のようだった)。




部屋の中央に正方形の白いものが敷かれている。その四隅にはBOSEのスピーカーが置かれてあって、その間の床にはスピーカーが小さく貼りついていた。四隅のうちふたつにはさらに、縦長の液晶画面2枚を縦に継いだものが立っていた。上の1枚には主演の俳優2人のうちの1人の上半身がぼかされて、下の1枚にはその俳優の下半身がクリアに映し出されていた。部屋の天井から壁と並行にぶら下がった大きなスクリーンには、岸田國士の戯曲『紙風船』(1921)―鎌倉旅行ごっこをする2人の夫婦の倦怠感あふれるやりとりが誤解という主題の下で展開される―の台詞とその英訳が、その向かいの、それよりは大分小さな(だが大きな)液晶画面には、同じ戯曲のト書きがときには滑るように、ときには旧式のスライドのように流れていた。
2人の俳優それぞれの像は2組の液晶画面間を行き来する。それは生身の人間が同じように四角くて白い正方形の中で演じていたときの映像だから。彼らは四角の上をぐるぐると回っていた。同じ理由で彼らの声も複数のスピーカー間を行き来する。




作・演出を手がけたあごうさとし氏はサミュエル・ベケットの影響を強く受けているそうだ。四角の中を人物たちが回ることはこのアイルランド人のアーティストの戯曲”Quad” を、向かい合った大きな液晶画面2枚のそれぞれに時折、文字の代わりに映し出される俳優それぞれの口のクローズ・アップは(少なくとも表層的には)同アーティストの『私じゃない』を想起させるが、あごう氏の真にベケット的な点はむしろ、言語とそれを発する身体との自然な結びつきを疑問に付していることと、不在のものに対する想像力を駆り立てさせようと試みていることだ。
後者の機能は、白い四角形の縁を移動する声と移動する身体イメージが主に担っているのだろう。身体のイメージはかつて演じた生身の人間身体の移動の軌跡の通りに、接ぎ合わされた液晶画面を出たり入ったりする。画面を出て姿を失った「俳優」の軌跡は、彼/彼女が画面に再び現れるまでは声のみによって辿られる。
言葉と身体の非-結びつきへの眼差しの存在はおそらく、台詞とト書きが向かい合う別々の画面に映し出されていることに端的に表れている。台詞を読んでいたらト書きは読めない。ト書きが読めなければ俳優の身体の動きは、ある程度は想定できたとしても完全に知ることはできない。台詞を読まないという選択肢は、もちろんある。だが、つい読んでしまう、実際に発されている台詞と文字の台詞が微妙に異なっている(俳優はときどき「言い違」えるし、台詞は旧仮名遣いだから口から発された台詞と完全に一致することはない)だけにいっそう、読まずにはいられなくなる。




演劇のそんな時空間が展開された後には、予想しえない結末が観客を待っている。視覚抜きで描かれた妻の死である。
これが何を意味するのか、そのときは分からなかった―同じく岸田國士によって書かれた戯曲『動員挿話』(1927)の結末を接ぎ木したものだった。「日露戦争への出征の供を少佐に命ぜられる夫と、それを引きとめようとする妻という、戦時下の夫婦の葛藤を描く。戦地に向かわなければ主従の縁を切るという少佐に対し、結果として主人に供すると夫は決断する。その話を聞いた妻は絶望の後、何も言い残すことなく井戸に身投げをする」(あごうさとしによる同戯曲の要約による)。
今回のあごうさとしの上演の第1部は、こうして終了する。
そう、この作品には第2部もあった。そこにおいて言葉と身体の乖離は狂った祝祭にも似た様相を呈する。




上演が行われている部屋の天井から場違いにも思えるミラーボールがぶら下がっているのが第1部上演の間ずっと気になっていた。ダンス・ミュージックが支配する第2部において、それは初めて意味を持つ。「人々、リズムを取り始める」と液晶画面に表示されたト書きは告げる。その向かいの大きいスクリーンでは岸田國士が物した「大政翼賛会と文化問題」(1941)の本文が上から下へと流れている。ロボットのようなエレクトロ・ヴォイスがそれを読み上げる。音楽は理性/言葉の次元を素通りして身体に作用する。理性のいうことを聞かない身体。それは、第1部で提示されていた、理性につなぎ留められた/まともな言葉を発するものとしての口―身体の一部―のあり方と見事な対照をなしている。観客にそれを強いているのは実際には音楽だが、液晶画面に出ている「ト書き」は結果的に命令の姿を取ることになる。聞いてはならなかったはずの命令。向かいのスクリーンを流れている文章は、今この現在楽しんで聴くことや高揚した気分で聴くことはもとより、無批判に聴くことも許されない内容だ。文化・芸術を利用した国威発揚。根拠がないままに自国文化を称え、国家のイデオロギーを盤石にするものとして芸術を利用しようとする意思の表明。音楽は、時代の空気は私たちに作用する。岸田にもきっと作用していた。1927年に戦争を巡る悲劇を書いた人間が、1941年には戦争に加勢した。スクリーンを流れている文章の愚かしさとその先に待っていた悲劇を私は確実に認識していた、そして私は微かにリズムを取っていた。

電話が鳴った。観客の1人がそれを取り、電話の相手からの指示通りに手を挙げた。芝居は終わった。
私たちは知らない間に芝居に参加させられていた。
電話については芝居が始まる前からすでに予告されていた。驚いたのはむしろ、私たちが「人々」役としてト書きの通りに動いていたことだ。「劇場空間における力学そのものに光を当てる」こともこの作品の狙いにはあったという。否応なしに観客/俳優を巻き込む演出の、演出家の権力/暴力、言葉/理性の無力や空転がそこにはあった。それは政治を司る側と、それに従い協力せざるを得ない者の関係にも似ているのかもしれない。私たち観客は俳優であり、岸田國士だった




と感じたのは、しかし私の個人的な感じ方に過ぎない。各人の言葉と身体の間で起こることは各人の身体や言語の感覚に応じて異なってくるだろう。この作品では「演劇の複製可能性」を追求したかった、とあごう氏は言う。正確には、それはおそらく「演劇の複製不可能性」だ。観客は二度と同じようには反応しない。通常、舞台物の複製不可能性への言及は作品を供する側の視点からなされる。つまり、彼らが同じものを決して再現できないという風に。
ここでは供する側/供される側の二分法は通用しない。供される者は供するものでもある。一般的な「劇場空間における力学」はこの点においても崩されている。演出には服従したとしても観客という立場に甘んじず、行為する余地が残されていたという意味で、観客は権力においてより自由だった。そこにあったのは固定化した所与の権力関係ではなく、権力ゲームの可能性だった。それは素晴らしいことに違いない。




それでも、何か割り切れない感じがある。いや、そもそも割り切れてしまってはいけないのかもしれない。あごう氏は作品が一義的な解釈を許さないものであってほしいのだから。そして彼がそう考えて演出するとき、彼は観客に一義的な解釈をしないように命じている。
権力からの絶対的自由は存在しない。私たちにできるのは、権力ゲームがよりフェアで、より多様な可能性を許すものになるようにすることだけだ。
演劇と政治とベケット…

山﨑 美穂
ニース大学への留学を経て慶應義塾大学および東京外国語大学で修士号を取得。慶應ではコクトーの、東京外大ではベケットの研究を行なった。以後は雑誌に舞台芸術や音楽についての記事を寄稿したり写真分野で制作活動を行なったりしている。

あごうさとし

純粋言語をめぐる物語-バベルの塔Ⅱ-

作・演出
あごうさとし


テキスト
岸田國士/「紙風船」「動員挿話」ほか


俳優
太田宏(青年団)
武田暁(魚灯)


ドラマトゥルク
仲正昌樹(法哲学者/金沢大学法学類教授)


映像
山城大督(美術家/映像ディレクター)


音楽
public on the mountain

画像クレジット
純粋言語を巡る物語-バベルの塔Ⅱ-2015年
アトリエ劇研©井上嘉和/Yoshikazu Inoue

日程
2015年12月18日(金)ー12月21日(月)
12月18日(金)  14:00-/19:30-
12月19日(土)  14:00-/18:00-
12月20日(日)  11:00-/15:00-
12月21日(月)  14:00-/19:30-



「パサージュⅢ」につづく、2作品目の無人劇です。太田宏さん、武田暁さんという東西の口語劇を担ってきたプロの俳優と、稽古を重ねています。しかし、二人が劇場に来ることはなく、本番も無人のまま上演されます。二人の演技は、物、映像、空間、関係性に翻訳され、俳優のいない舞台上ではそのアウラが複製されます。
テキストは、岸田国士の「紙風船」「動員挿話」を軸に、1920-30年代と現代の言葉をつなぎます。90年ほど前のひと組の夫婦の言葉を、解体された身体性と結びつける作業でもあります。二人の生の演技は、本年12月5日の芸術センター明倫茶会で披露されますが、一体それがどう無人化するのか、劇的な翻訳をお楽しみください。


4月
山下残『大行進、大行進』
アソシエイトアーティスト・ショーケースA

アソシエイトアーティスト・ショーケースB

5月
ドキドキぼーいず
田中遊/正直者の会
劇団しようよ

6月
キタモトマサヤ/遊劇体

7月

8月
西尾佳織/鳥公園
多田淳之介/東京デスロック
Hauptbahnhof

9月
木ノ下裕一/木下歌舞伎
はなもとゆか×マツキモエ

10月
したため
キタモトマサヤ/遊劇体

11月
桑折現
250Km圏内
努力クラブ

12月
あごうさとし
ブルーエゴナク

1月
田中遊
きたまり

2月
笑の内閣

3月
山口茜
笠井友仁
村川拓也
岩渕貞太