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したため『文字移植』


原作:多和田葉子
演出・構成:和田ながら

文・川崎歩






したため したため#4『文字移植』撮影:前谷開


 したため。古風でもあるし、意表をつかれた感もある劇団名だ。だが確実に舞台上に何かの痕跡をのこしてくれそうだと思いながら、劇場に入った。すると舞台上に4つのアクリル板がさまざまな高さで紐と重石によって中空に固定されているのが目に入る。しばらくそのアクリル板に映りこむ観客の姿を眺めていると、バナナもひと房、ぶらりと天井から吊り下げられているに気がついた。
 作品が始まる。暗転後、照明が灯ると、それぞれのアクリル板の後ろに4人の男女が立っていた。4人は、この物語の語り手である翻訳家になったり、物語が展開するカナリア諸島の島の住人になったり、島の唯一の産業であるバナナ園のバナナの木になったりする。(アクリル板の上から、手のひらをだらりと前方に下げてバナナの木、なのだがそのとき初めて吊られたアクリル板の高さが役者それぞれの身長と手の長さによって、決定されているのに気がついた。この気づきは何か美術作品をみるときの楽しみに似ている。またアクリル板は透明度が高く、板の縁がうまい具合に光って枠の効果を出していて、板の向こう側にいるはずの人物が、そーと指をアクリル板に近づけたときなど、板を通り抜けてこちら側に出てきそうな不思議な効果を楽しめた。)異国の地で感じる湿度や匂いの違い、それによって生じる身体のだるさ、みたいなものがそれぞれの役者の、手紙を丁寧にしたためているような、聞いていて気持ちの良い発声と身体によってよく伝わってくる。

したため したため#4『文字移植』撮影:前谷開
話は、聖ゲオルグの竜退治の短編を翻訳するために、カナリア諸島にある友人の別荘に逗留している「わたし」の一人語りで進行していく。「わたし」は、慣れない環境で身体が痒くなったり、果たして翻訳は可能か?と悩んだりしていて、翻訳がなかなか進まない状況にある。万年筆で紙に、「において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも・・・」と逐語訳をただただ記していく日々が続く。この逐語訳の部分を、出演者は句読点の部分ですばやく息を吸い込むリズムで、語っていく。吸気と発声のリズムはまるで癇癪をおこした幼児が泣いた後に、頑張ってしゃべろうとしているかのようだ。そのもどかしさ、身体と言語がすぐに結びつかない混乱した関係性が、この発声のリズムから感じられた。
 劇が進むにつれて、だんだんとアクリル板が、翻訳者の「わたし」が使っている原稿用紙の方眼に見えてくる。アクリル板の後ろのそれぞれの人物は翻訳されようとして、未だ意味を決定されない文字に、見えてくる。または意味を決定されない人物に、見えてくる。意味が途中で剥奪された身体に、見えてくる。権威を聖ゲオルグに奪われた、竜に見えてくる。実際、逐次訳内の、聖ゲオルグに槍で突かれて竜が身悶えて死んでいくであろう場面を、役者の三人が冷酷にただただ発声し、残りの男性がひとりで地面を身悶えしながら演じていた。
 作品は中盤に一回、暗転をした後に、趣を変える。
 どうやら翻訳者の「わたし」は、翻訳を終えたらしい。翻訳を終えた原稿用紙を、郵便局まで持って行き、この島から送り出そうとする。だが途中には、聖ゲオルグが立ちはだかり、理不尽な水たまりや暴力やゴミのかたまりが「わたし」の行く手を阻む。それらを4人の役者がバナナを小道具に、様々な見立てで演じつつ、もうアクリル板に動きを限定されることもなく空間を自在に走り回る。バナナをマイク代わりにして今起きていることをプロレス実況のようにしていたりして面白い。最後は海に向かって、全力で舞台上をくるくると走り廻り逃走しようとしながら暗転して、舞台は終わる。翻訳原稿の行方はどうなったのだ?と心のなかで突っ込みながら、その全力さには敬服するが物語の終わりとしてはなにか納得のできないものがあった。
 原作でも、最後は海に向かって疾走しながら話は終わる。結局、翻訳された原稿も語り手も、この島から出ることができない。本という枠組み、そしてその中の文字(母語)というマテリアルから脱出できなかったように、この身体に翻訳された演劇も、最後は劇研の狭い舞台上を、駆け回りながら終わる。原作と同じように舞台空間から、また演出されたフィクションからは脱出できなかったのだろうか?
 いや、違う。作品を後から思い返した時に、私は原作を超えてさらに突き抜けている点があると思い直した。

したため したため#4『文字移植』撮影:前谷開
まず、出演者の中に、石見神楽を実践されている方がいるところだ。八岐の大蛇退治の演目は石見神楽にとっては鉄板の演目で、よく実演されている。この配役により、リアルの今、目の前にいる役者によって竜(大蛇)退治はこれからも繰り返し、再現されうるものだ(あるいは、その再現の場に目の前の役者は参加しうる)ということが提示されていた。そう考えることによって、劇研という空間を超える視点が発見できるのではないだろうか。
 さらに、丁寧な演出によって、それぞれの役者の身体がクリアに浮かび上がってくる、観客にとって余裕がある状態から生じたと思われる現象があった。一人の役者の独白の途中で、ふっと壁にうつる影に意識が移っていった瞬間があり、そして偶然にもその影がちょうど壁際の照明器具に手をかけて、舞台を照らそうとしているように見えた。影が照明を使い、舞台を照らすというそのメタ的行為のビジョンによって、舞台の奥行きは、私の中で現実の舞台空間を超えて、大きく広がった。それはおそらく演出家にとっては、演出の枠を超えたもので、そのように『見立てた』のも私だけかもしれない。しかし、作為されたフィクションという行為ではないところから、豊穣なものを生み出す(発見する)ための丁寧な作法、のようなものがこの作品からは垣間見えたような気がする。したため。アクリル板に、唇に塗った白いリップの痕跡を、ずずずと残していった。その痕跡の付け方も、役者4人それぞれのなんらかの作法があった。したため。それは豊穣さを呼びこむ、新しい作法なのかもしれない。

(2016年7月23日掲載)


したため したため#4『文字移植』撮影:前谷開

川崎歩
いろいろする人。活動領域は、頻度が多い順に、現在は【SE>子育て>ダンス>ワークショップ講師>現代美術>演出>映像】。

アトリエ劇研創造サポートカンパニー|したため

したため#4『文字移植』

原作:多和田葉子
演出・構成:和田ながら
出演:穐月萌 岸本昌也
   菅一馬 多田香織(KAKUTA)


日程
2016 年6月10日(金) ~ 13日(月)
6月10日(金) 19:00
6月11日(土) 14:00/19:00
6月12日(日) 14:00/19:00
6月13日(月) 14:00


ある物語を翻訳するために訪れた島で、言語と言語のあわいで惑う"わたし"――
言葉はどのように「移植」できるのか、その「移植」をおこなう者の身体とは、どのような運動のさなかにあるのだろうか。
出演者の日々の生活のドキュメントから演劇をたちあげてきたしたためは、2016年、テキストと出会う旅をはじめました。初の2都市ツアー公演で臨むのは、ふたつの言語を往復しながら精力的に活動し、文芸賞の受賞も続く作家・多和田葉子の初期作『文字移植』(1993)。
言葉と身体が発火するところへ。