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アトリエ劇研スプリングフェスvol.2


アソシエイトアーティスト・ショーケース Bグループ

演出 多田淳之介「CEREMONY(新ディレクター就任お祝い ver.)」
演出 きたまり「スケルツォ」
原作 安部公房 構成・演出 山口茜「AN OBJECT TELLS」
演出 村川拓也「終わり」

文・森山直人


上段 左:「CEREMONY(新ディレクター就任お祝い ver.)」  上段 右:「スケルツォ」
下段 左:「AN OBJECT TELLS」  下段 右:「終わり」
撮影 あごうさとし





■多田淳之介『CEREMONY』


 わたしは、「演劇」というジャンルの原点のひとつに、〈人々が集まるということ〉、すなわち〈集会性〉があると考えている。本作は、「集会」ではなく、「儀式」という語を用いているが、「人が集まる」という機能に注目している点では同じだろう。わたしは横浜で演じられたヴァージョンは未見だが、本作では、正装した4人のパフォーマーが観客ひとりひとりに挨拶し、「劇場の儀」という名目で、いま、ここにある劇場空間から出発して、過去・現在・未来に至る「劇場の歴史」について観客とともに思いを馳せる。そんな「架空の儀式」になぞらえた「集会」であるといえよう。『再/生』や『シンポジウム』もそうだったが、多田淳之介の作品には、基本的なプログラムのフォーマットがあり、それを上演のローカリティに合わせてカスタマイズしていくものが少なくないように思う。本作も、そのような多田作品の特徴が充分に発揮されている。
 架空の儀式の最後に、「劇場法」の前文が朗読され、同時に背後のスクリーンでは、「劇場史」にまつわる映像や年号が次々に投影されていく。そうやって、いつしか「儀式」は、一枚の「風景」へと収斂していく。そのとき、いま、ここにいる観客の目の前に立ちあらわれてくるのは、古代ギリシャの円形劇場がもたらしていたような共同体の祝祭的な「集会性」というよりも、むしろ不可視のプロセニアム・アーチである(同じような見えないプロセニアム・アーチの存在は、数年前に「Dance Fanfare Kyoto vol.2」で上演された『SYMPOSION』にも感じられた)。本作において、この不可視のプロセニアムは、「劇場法」の朗読シーンを、つつましくも美しい「風景」へと染め上げていた。――それはそれでよくできている。だが、それにしても「劇場史」とは、これほどまでにおだやかな「善意」だけが支配してよいものなのだろうか、という疑問も湧いてくる。というのも、ここで詳しく論じることはできないが、むしろ「悪意」にどうクリエイティヴに立ち向かうかが、「集会」にとっての重要なテーマであるように思えるからである。


■きたまり『スケルツォ』


 もしも見逃した人のために作品の内容を説明するとしたら、ひとまずここには、二種類の時間が交互に流れることになるのだよ、というところから説き起こすことになるだろう。ひとつは「何もない無機質な空間に導かれてやってくる時間」、もうひとつは「軽快な音楽と、穏やかな光に満ち溢れた空間に導かれてやってくる時間」である。いま、かりに前者を〈夜〉、後者を〈昼〉にたとえてみると、それぞれには、3人のダンサーの身体の、対称的な二つの部位が、振付の主要な動機として割り振られていることがわかる。すなわち、〈夜〉には「足」、〈昼〉には「顔」。――無機質な空間に導かれて、最初にやってくるのは〈夜〉だ。そこではダンサーが、ひとり、またひとりと現れては、床にひたすら両足を打ちつける、激しい身振りを繰り返すことで「時間」が生成される。やがて、〈昼〉がやってくる。そこでは、マーラーの交響曲第一番『巨人』のスケルツォにのって、しばらくのあいだ、ひたすらユーモラスな「顔面」ダンスが繰り広げられたりする。
 きたまり、野渕杏子、花本ゆかの三人は、これまで何度もトリオを踊ったことのある組み合わせであり、技術的にも向上しているので、その分作品には安定感がある。特段「意味」を求めず、それぞれに特徴のある三人のムーヴメントに身を任せるだけでも、充分に観客を満足させる力は持っている。〈夜〉と〈昼〉とのあいだの作品的な関係性はやや図式的ともいえようが、彼女たちが、30分というこのショーケースの枠を用いて、対称的なモチーフを掛け合わせることによる化学反応のあり方を、可能なかぎり見極めようとしているようにも見えた。マーラーの交響曲への振付に並々ならぬ関心をもっているらしい振付家きたまりにとって、ことによると本作品は、さらに大きな作品群への飛躍を見据えた、絵画でいえば重要なエチュード=習作のひとつなのかもしれない。
 その上であえて言おう。唯一気になったのは、「スケルツォ」にのって繰り出されてくるムーヴメント(“顔芸”も含めて)が、どこかひとつの枠にはまりすぎているように見えることだ。一言でいうと、それらはあまりにも〈オバチャン〉的(!)でありすぎる。そのイメージへの固執のせいで、彼女たちのユーモアに、あと一歩の「柔らかさ」と「深さ」が阻まれているように見えた。「身体」は「顔」と「足」だけではない。――たとえば、なだらかな芝生の斜面を、たくみにバランスをキープしながらしなやかに駆け下りるときの体幹や足裏の感触のようなものが、もっと引き出されてきてもよいはずなのだ。


■山口茜『An Object Tells』


 わたしはこれまで山口茜のあまりいい観客ではなかった。彼女の作品では、ある種の衝動的な動きが流れを中断し予測不可能な展開を生む。そこはよいのだが、他方でそうした「衝動」が、舞台の時間―空間という〈物理〉をいささか軽視しているようなところがあって、そこが不満だったのである。
 その点、今回の作品は、かなり興味深い仕上がりだった。たしかに、やや荒削りなコラージュではあるが、このフェスティバル自体のショーケース的な制約を考えれば、そういう意味での「完成度の高さ」は、この際さほど問題ではない。全体のフレームとなるモチーフは、「安部公房」と「コンテンポラリーダンス」であり、5脚の椅子を使った5人の身体運動は、時折、古典的名作『ローザス・ダンス・ローザス』のような匂いさえ漂う。わたしが興味深かったのは、こうした枠組みの反復的な使用を通じて、これまでの、いささかダダモレ感が勝っていた「衝動」が、フィジカルな形(カタチ)を獲得しつつあるように思われたからだ。「衝動」が、あるクリアな軌跡を描きはじめたように思えたのである。5人の「奇妙な男たち」のキャスティングもよく、彼らの身体表現の力量も含めて見ごたえがあった。
 その上で、今後注目していきたいのは、こうした「衝動」が、「思いつき」からどれだけ遠ざかることができるか、という点である。実のところ、今回の「ダンス的ムーヴメント」の活用の仕方も、「思いつき」感が完全に払拭されているわけではない。「思いつき」に留まってしまうことがまずいのは、客席が、「ああ、思いつきだな」と納得し安心できてしまうからである。本能的にマゾヒスティックな存在である劇場の観客は、いつでも自分たちの浅はかな期待が裏切られ、深く刺し貫かれることを望んでいる(刺し貫かれすぎて怒り出す観客もたまにいるが・・・)。その意味で、ひとつひとつのシークエンスは魅力的なのだが、場面転換が生み出すリズムにやや必然性を欠き、〈動きすぎ〉(多動症的?)の感が残ったのは惜しまれる。「衝動」は、観客という他者の無意識とシンクロすることで、初めて圧倒的な演劇的パワーを手に入れることができるからである。


■村川拓也『終わり』

 倉田翠と松尾恵美。はじめてこの2人のダンサーに接する観客にとっては関係ないが、この作品は、実は彼女たちが作ってきたいくつかの過去作品の振付を、「現在」においてもう一度生き直す、という構造を持っている。私自身は、たまたまその多くを見たことがあるために、どうしてもそういうヴァイアスのかかった眼で見てしまうことになるのだが、そういう意味では、たとえば『ツァイトゲーバー』のような作品とは違った意味で、本作品は、この2人のダンサーを主人公としたドキュメンタリー演劇としての側面をもっているのである。
 もっとも、上記のような隠れたエピソードを知らなくても、いざ作品に接したなら、この2人の関係性が、どこかただならぬ空気をたたえていることを敏感に感じ取った人も少なくなかったはずだ。2人のダンサーと数脚の椅子だけのシンプルな舞台が、これほどまでの奥行きと広がりを獲得することができたのも、ひとえに2人の、近づきすぎず、けれども「近づけない」という圧倒的な「近さ」の関係性がもたらす、激しい静けさに彩られた劇的緊張のなせる業であった。松尾が床に倒れた倉田の腹部を、歌うようなピアノのメロディにあわせ、恐ろしい勢いで何度も蹴りつける場面は、生身の肉体が傷つかないよう細工がしてあるはずだと分かっていても、ヒリヒリした関係の痛みが伝わってくる。わたしたちは終始、固唾を飲んで、永遠の深さを持つ30分間をただただ見守るほかはない。
 2人にとって、過去を生き直すことは、いわば記憶という「亡霊」と向き合うことにほかならない。ただし、その場合、本作品のタイトルである「終わり」というコンセプトは、そうした営為とどんな関係性を切り結ぶことになるのだろうか。私たちが舞台上に見出すのは、ベケット的な「終わりに向かう反復」ではなく、幾度となく、新たに始めようとする時間性だったように思う。タイトルと実際の舞台の間に生じた齟齬は、あるいは演出家が予想外の誤算――というより「uncontrollableなもの」に直面してしまったことを物語る、ひとつのドキュメントと読むべきなのだろうか。その点には疑問が残った。


森山直人
1968年生まれ。演劇批評家。京都造形芸術大学舞台芸術学科教授、同大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。京都芸術センター主催事業「演劇計画」企画ブレーン(2004~09年)を経て、2011年より、KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)実行委員、2013年より実行委員長を務める。著書に、『舞台芸術への招待』(共著、放送大学教育振興会、2011年)。主な論文に、「沈黙劇とその対部――あるフィクションの起源をめぐって」(『舞台芸術』13号)、「〈ドキュメンタリー〉が切り開く〈舞台〉」(『舞台芸術』9号)等多数。

アトリエ劇研スプリングフェスvol.2

アソシエイトアーティスト・ショーケース Bグループ

スタッフ


舞台監督 磯村令子
照明   池辺茜
音響   奥村朋代
企画   あごうさとし
制作   長澤慶太


日程


2015 年4月10日(金)〜13日(月)
Aグループ
4月10日(金)18:30
4月11日(土)14:00


Bグループ
4月12日(日)14:00
4月13日(月)14:00



多田淳之介 「CEREMONY(新ディレクター就任お祝い ver.)」

演出=多田淳之介 出演=夏目慎也/伊東歌織/鶴巻紬/松﨑義邦
「儀式」を共有と確認の場として演劇空間に再構築する東京デスロック『CEREMONY』を新ディレクター就任お祝い ver.として再構成し上演。

きたまり 「スケルツォ」

振付・出演=野渕杏子/花本有加/きたまり
きたまり率いるKIKIKIKIKIKIの二年半ぶりの新作短編。交響曲とダンスを紐解く試みがスタートします。

山口茜 「AN OBJECT TELLS」

原作=安部公房 構成・演出=山口茜 衣装協力=南野詩恵
出演=高杉征司/勝二繁/芦谷康介/松本成弘/高橋紘介
安部公房の短編小説「棒」をモチーフに、棒からみた私たち人間の世界を描きます。

村川拓也 「終わり」

演出=村川拓也 出演=倉田翠/松尾恵美
2013 年に上演された『瓦礫』に続く、演出家村川拓也の二作目ダンス作品。

4月
山下残『大行進、大行進』
アソシエイトアーティスト・ショーケースA

アソシエイトアーティスト・ショーケースB

5月
ドキドキぼーいず
田中遊/正直者の会
劇団しようよ

6月
キタモトマサヤ/遊劇体

7月

8月
西尾佳織/鳥公園
多田淳之介/東京デスロック
Hauptbahnhof

9月
木ノ下裕一/木下歌舞伎
はなもとゆか×マツキモエ

10月
したため
キタモトマサヤ/遊劇体

11月
桑折現
250Km圏内
努力クラブ

12月
あごうさとし
ブルーエゴナク

1月
田中遊
きたまり

2月
笑の内閣

3月
山口茜
笠井友仁
村川拓也
岩渕貞太