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アトリエ劇研スプリングフェスvol.1『大行進、大行進』

ダンスの訪れを待つ詩的空間

~山下残 作・演出 『大行進、大行進』~

文・ 竹田真理






山下残『大行進、大行進』 撮影 あごうさとし

本作はアトリエ劇研の2015‐2016シーズンの幕開けを飾る「スプリングフェスvol.1」のプログラムであり、劇場の技術者養成のワークショップの一環として、受講生が実践を積むために企画された公演でもある。アトリエ劇研は前身のアートスペース無門館以来、昨年で開館30周年を迎えた京都の小劇場の老舗中の老舗だ。無門館が閉鎖の折、館主に掛け合い、新たな開設に尽力したのは、当時の劇場の若き技術者たちであったという。その後、別途ディレクター職が置かれたものの、現在でも「アトリエ劇研スタッフルーム」の名のもと、技術者たちが劇場運営の中核を担っていると聞く。準備も操作も上手くいって当然とされる‘裏方’の技術者たちが、劇場の灯を絶やさず、技術を伝承してきたという事実には打たれるものがある。この歴史を受け継ぐ者たちがいる一方で、新ディレクターのあごうさとしは、京都の演劇環境の課題をにらみつつ、アグレッシブな運営に漕ぎ出そうとしている。今公演はこうした文脈のもとに開催されている。


さて本作は2010年高松で作・初演された『大行進』の再演だが、今回は山下残、司辻有香による二つのバージョンで演じられ、タイトルも『大行進、大行進』と2回繰り返しである。舞台はスタッフワークの賜物と云ってよく、山下、司辻それぞれの回で劇場空間が大胆に改変され、カミイケタクヤの美術構想のもと、入念に作り込まれている。山下によるオリジナル上演では、椅子席が取っ払われ、場内全体を斜めに貫くように本物の鉄道線路が敷かれている。(司辻有香のバージョンでは客席は通常に戻り、線路は正面奥からまっすぐ手前に延びるように敷かれた。2バージョンのインターバルで迅速な設営を手掛けたのは、もちろん受講生たちだ。)所せましと床を埋める使い古された道具、ガラクタ、天井まで組まれた櫓。この空間を山下は、ダンスの生まれる瞬間を探して歩く。日常の時間を引きずったまま現れ、思いのままにガラクタを手に取り、言葉を発し、線路を歩き、櫓に上る。「なかなかダンスが生れませんねー」などと言いながら。静寂の中で蚊を叩いたり、咳をしたりする卑近な身体から、動作の反復、声や身振りの激昂まで、身体の在り様のレンジをそのままパフォーマンスとしながら、合間に潜んでいるダンスへのきっかけを、ひとつひとつ見出しては示していく。だが、そこから本格的なダンスの時間が流れ出すことはなく、ダンスはただ可能性として提示されていくのみである。

司辻有香『大行進、大行進』
山下自身がいうように、本作は山下がこれまでの創作で試みてきたことの‘繰り返し’、過去の作品の引用である。大量のガラクタの羅列は『庭みたいなもの』でもカミイケが採った方法だし、「熊が暴れる」「魚が溺れる」「鳥が落ちる」と、その形のオブジェを手に取りながら読み上げるセンテンスは、『そこに書いてある』から採られている。舞台上で様々な動作を行うソロの形態は、山下のポエティックな側面が大きく出た作品『せき』に重なる。身体の階調を変えながら、舞台の時間を過ごしやる孤独で自由な詩的空間。放尿の場面はスキャンダラスだが、こちらに背を向けた姿は、一個の身体の小ささ、寄る辺なさを伝えてしみじみとさせる。衒いのない台詞や行動は、観客にとっては既に馴染のある山下の方法であり世界である。


山下残はダンスを生み出す方法、すなわち「振付」を、まったく独自に思考し、試みてきた振付家だ。言葉と身体を対置して、身振りで情報を交し合うことで、或いは呼吸をコマンドとしながら、と、その方法は常に既存のダンスの枠組みに抵触しつつ、ダンスをゼロ地点で捉え、その成立を問い質すものだった。何がダンスになるのか、人は何を振付けとして動くのか、「ダンスとは何か」。観客は彼とともにダンスの前線に立ち、こうした問いをコンテンポラリーダンスの展開とともに思考してきたのだ。だが、自らの引用を構成した『大行進、大行進』では、前線は消え失せ、「ダンスとは何か」という問いは、ひとつのスタイルとして承認されていく。舞台を埋める使い古されたオブジェは過去の時間の堆積である。シーリングライトは月になり、ミラーボールの天体が回る。朝と晩が繰り返し、世界はおおらかで素朴で、詩への契機に満ちている。作品は緻密に作られていて、司辻有香の上演でも台詞や動作の多くは山下のオリジナルを踏襲していた。ただし司辻自身は演技に長け、パンチのある発声とセリフ術を巧みに駆使して、優れたカバー曲がそうであるように、一癖もふた癖もある、ひねった魅力を放った。その巧さが、繰り返す時間構造を上書きする。世界はこのブラックボックスの中に完結している。作り込まれたアトリエ劇研の高密度な空間が、ダンスの訪れを待ちながら、宙吊りになっている。


ところが、まったく逆説的だが、この完結した世界は、我々の現実が3.11‘以後’にあることを喚起してやまないのである。あろうことか作品中には「大洪水、大震災、大火災」と連呼する場面や、「皆さん逃げて下さい!」という台詞があって、見る側はどうあっても4年前の東日本大震災と津波を思わずにはいられない。大量のガラクタは被災地の瓦礫を連想させもするだろう。作品は3.11より以前の作で、もとより震災に言及したものではない。件の場面や台詞は、乱調をきたす世界がダンスの衝動を呼び起こすことを狙った、山下一流の言葉による振付の本髄でもある。その狙いは今回の上演から十分に受け取ることが出来た。しかし同時に、それが意味するものを、観客は振付家の意図を越えて受け取ってしまう。震災は起こったのであり、我々の現在は3.11という経験を前提としており、それ以前に戻って何かを思考することは出来ないところに来ている。本作の良心、素朴さ、ダンスの到来を待つ普遍的な時間が、反語的に3.11以後という歴史上の時間を浮上させる。


様々な文脈や経緯が、本作を見る体験を複雑にしている。おそらく3.11とともに、もっと言えば誰もが目にしたあの津波の映像とともに、ポストモダンな時代は終わりを告げ、歴史の時間が流れ出したのだ。それと同時に「ダンスとは何か」という‘根源的’な問いもアクチュアルな前線から退く。本フェスティバルのショーケースに参加した山口茜作品の中で「ダンスは人類最古の芸術である」というジャーゴンが揶揄を含んで語られたのも、偶然ではないのだろう。これから表現者たちは、「どのように」ではなく「何を」を、方法ではなく内容を、問われることになるだろうと、震災後間もない時期に言った人がいたのを思い出す。ダンスは、現実との新しい結び方を模索するべきなのか。それとも、固有の普遍的な時間に留まることが、現実に対する芸術の可能性を担保することになるのか。「ただ同じことを繰り返す。」と述べる山下自身も、悠然と構えながら、問うているに違いない。(4月4日所見)

竹田真理
ダンス批評。東京都出身、1999年より関西を拠点に活動。毎日新聞、音楽舞踊新聞、季刊「ダンサート」、批評誌「ダンスワーク」、「シアターアーツ」等に寄稿。国際演劇評論家協会会員。

アトリエ劇研スプリングフェスvol.1

『大行進、大行進』

作・演出
山下残


出演
山下残
司辻有香(辻企画)


スタッフ
「舞台技術スタッフのためのワークショップ」受講生


アドバイザリースタッフ
舞台美術 カミイケタクヤ
舞台監督 浜村修司
照明   吉田一弥
音響   奥村朋代
企画   あごうさとし
制作   長澤慶太


日程
2015 年4月3日(金)~5日(日)
4 月3 日 19:30
4 月4 日 15:00 / 19:30
4 月5 日 15:00



劇場に散乱する拾われてきたオブジェ、運び込まれた本物の線路。
その場の思いつきでふらふらする姿は観客を前にしてあるまじき行為。
自分以外は全員狂っていると自任する人物が、ぶつくさつぶやく世界の事象。

2010 年高松で初演され、その後各地を旅した「大行進」が、
ダブルキャスト(山下バージョンと司辻バージョン同時上演)によって
「大行進、大行進」となり京都初公演。

4月
山下残『大行進、大行進』
アソシエイトアーティスト・ショーケースA

アソシエイトアーティスト・ショーケースB

5月
ドキドキぼーいず
田中遊/正直者の会
劇団しようよ

6月
キタモトマサヤ/遊劇体

7月

8月
西尾佳織/鳥公園
多田淳之介/東京デスロック
Hauptbahnhof

9月
木ノ下裕一/木下歌舞伎
はなもとゆか×マツキモエ

10月
したため
キタモトマサヤ/遊劇体

11月
桑折現
250Km圏内
努力クラブ

12月
あごうさとし
ブルーエゴナク

1月
田中遊
きたまり

2月
笑の内閣

3月
山口茜
笠井友仁
村川拓也
岩渕貞太