アルルカンとは?

 アルルカンを知らない人も日本には多いでしょう。アルルカンはヨーロッパの有名なキャラクターですが、彼の本当の性格=アイデンティティに関してはヨーロッパでも色々な見解があります。

 どん欲で、無一文で、単細胞で、いたずらっ子だと思っている人もいます。そういった面は、古き良き古典喜劇の登場人物としての側面です。20世紀には、彼の名前はLes Hallesレストランの食べ残しを意味していました。しかし今日、フランスの子供たちは、彼の名前を聞けばお菓子を思い出しますし、イギリスではサッカーチームの名前になっています。ファッションデザイナーにとっては、アルルカンは様々な色が混ざり合った状態を意味する形容詞です。そして世界中のオバアちゃん方にとって、アルルカンと言えば、「ハーレークーン・ロマンス(*アルルカンを英語読みするとハーレークイーンとなります)」というロマンス小説を想起させます。しかし、本来の語源は、恐ろしい悪魔の名前です。こういった神話上の悪魔の陰には、あらゆる人間性が隠れているものです。人々を笑いで包むこういった悪者のキャラクターは、アメリカ、ヨーロッパ、アジアなどあらゆる文明の中で生まれた文化的産物と言えます。そういった背景をふまえて、今作品「アルルカン (再び)天狗に出会う」では、アルルカンが悪魔退治をする鍾馗<しょうき様>(中国の伝統キャラクター)と天狗(日本)に出会います。

 そして悪魔の旅路の果てに登場するのが、牛若丸の剣術訓練を指導した大天狗の鞍馬天狗になるでしょう。

物語について

 物語は、家の召使いの如くアルルカンがほうきで舞台上を掃いているシーンから始まります。観客に向けて話ができる事に気付いた彼は、日本の観客に自分の物語を嘘かまことか語り始めます。

 彼は、ヨーロッパ演劇の古典的モデルである19世紀の古典劇「コメディアデラルテ」の演技作法に則り、パントマイムから始め、演劇史の中で様々に演じられてきたアルルカンの古典的な要素をいくつか引っ張りだしてアルルカンを演じていきます。しかし、アルルカンの陰に隠れる悪魔は、革の仮面の中に潜み、俳優の言葉と身体を奪おうとします。そして、悪ふざけに飽きたこの超自然的存在は、舞台を乗っ取り、悪魔としての己の正当性を訴えます。悪魔は、俳優や脚本家に対していつも怒り狂っています。自分のアイデンティティが間違って表現されていると思っているのです。悪魔は自分自身がいかにすごい存在なのかについて語ります。中国で鍾馗(しょうき)に会い、日本で天狗に会った事について説明をしますが、最後には薄い空気になって消えてしまいます。

こんな特徴があります

今作品は、コメディ作品でありながらも、アルルカン自体のお話はちょっぴり悲しい雰囲気に包まれています。アルルカンとは、西洋の古典劇に登場する道化師のことです。西洋やアジアの古典芸能の要素をふんだんに盛り込んだ「アルルカン(再び)天狗に出会う」。作・演出・出演、すべて一人でこなすディディエ・ガラスの身体(骨!筋肉!声!)からは、能や京劇のスタイルが感じられるでしょう。そしてフランス人でありながら、ディディエ扮するアルルカンは、なんと日本語で話しかけてきます! 2010年、前作『アルルカン、天狗に出会う』は京都(第七回アトリエ劇研演劇祭)、東京、静岡(SPAC/Shizuoka春の芸術祭)で上演され大変好評を得ました。古典芸能と現代舞台芸術の素晴らしいコラボレーション新作を持って、再び日本の観客と出会います。

共同製作の経緯 杉山準

 ディディエ・ガラスは1998年、能楽を学ぶため、フランス政府派遣のレジデンスアーティストとして、京都市にある関西日仏交流会館ヴィラ九条山に滞在、金剛流能楽師・宇高道成氏に師事し能楽の手ほどきを受ける。

 その滞在の際に当企画のプロディーサーである杉山準と知り合う。杉山はディディエ氏が関西日仏学館でプレゼンテーションしたパフォーマンスに感激し、その翌年に開催された第9回芸術祭典・京 演劇部門へ招聘する。

 2000年7月には、大倉流狂言師松本薫氏(茂山千作一門)、中国の京劇俳優とのコラボレーション作品“Monnaie de Singes”がアヴィニョンフェスティバル(フランス)に正式招待され、高い評価を受ける。この作品はアルマダ・フェスティバル(ポルトガル)で大賞を受賞するなどヨーロッパおよび世界各国をツアーすることになった。

 2009年には再び能楽を学ぶため、京都に滞在。そこでの作業を元に製作した作品『アルルカン、天狗に出会う』が2010年に京都の小劇場「アトリエ劇研」主催の第7回アトリエ劇研演劇祭に招待され大きな反響を得た。この作品は静岡県舞台芸術センター(SPAC)および東京でも上演され、同じく好評を博した。

 2012年、今回の上演では能楽の要素をさらに取り入れることを希望しており、再び金剛流能楽師の宇高道成氏と共に作品創作に取り組む予定。また、京都大学の大浦先生と共に、日本語の台詞にも磨きをかけ、今回も台詞の多くを日本語で語る予定。

仮面ー過去世へ 宇高通成 (前作)


 もうすでに数年も前になるが、フランスから、ディディエ・ガラスと言う名の仮面劇の演者が私の所に来た。彼は革で作られた、王や王女、王子や召使い、はたまた乞食の仮面を交互に着け、様々な役を即座に演じて見せた。すぐ目の前に座っていた私は、威厳に満ちた仮面から繰り出される言葉や、大きなしぐさに、石のように硬く縮まってしまった。また、哀れな老人に変わると、心の中から救いの手が出そうになった。彼の劇中に知らず知らずの内に入り込んでいた私は、ふと、能で味わう何か、心騒ぐ想いを感じ取った。それは、仮面でしか表現出来ない希有な現象であると同時に、長い間、この特殊な現象について真面目に問うて来た。その問いはこうである。いったい仮面は、なぜ人の心の底まで入り込んで、様々な感動を与えるのだろうか。それは幾度となく繰り返されて来た、人生という輪廻転生の中で、恐れ、敬い、驚き、悲しみ等と言った、喜怒哀楽の感情が、我々の心の中に蓄積され、様々な心の揺さ振りを引き起こすのではないか。いわば仮面は、我々の感情の縮図とも言える。そう言った深い意識の底に沈んでいる過去の思い出と、仮面が一致する時に、特別な感動を生むのではなかろうか。日本に於ける仮面の代表は、おのずと能面にたどり着く。しかしながら、能面は日本のオリジナルではなく、インド、中国、韓国から伝承された、宗教的要素を含んだ、仮面群の到達点が能面の原点であり、能という魂救済の仮面劇が、より熟成を加えて、今の能面が出来上がった。今や、能楽は日本だけのものではなくなりつつある。能の表現のメソッドを学ぶ、多くの外国人の中で、ディディエ氏のように、目線の使い方、面の傾斜によって生み出される、能的な表現の世界は、無尽に広がるに違いない。益々の熟成を加える彼の仮面劇は、甚だ脅威であり、楽しみでもある。ただ、私にフランス語の理解力が無い事は、実に情けない事である。
(初出:2010年「アルルカン、天狗に出会う」静岡公演パンフレット)

SPAC/Shizuoka春の芸術祭2010のページ (前作)

SPAC発行「劇場文化」掲載エッセイ (前作)

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