演劇の上演を行うのは誰か

 ベンヤミンの著作にタイトルを借りて、映像や録音といった複製技術と演劇の上演との関わりを問う「-複製技術の演劇-パサージュ」三部作の完結編。本作では、生身の俳優はいっさい登場せず、観客は舞台上を自由に歩き回りながら、「キャプション」とともに展示されたモニターや展示物を眺め、音声・字幕・映像によって進行する物語を追いかける、という演出方法が採られた。
 暗闇の中に浮かび上がる1台のPC。カタカタという音とともにモニター上に表示される字幕は、ナレーションやト書きの役割を果たす。「1940年9月 スペイン・ポルトボウ」「ドアが開く」「ベンヤミン、登場する」。ただし、ベンヤミンを演じる俳優の身体は登場せず、録音された音声が彼の代理表象として現れる。物語は、職を失い、ナチスによって祖国ドイツを追われ、亡命先のパリからスペインへと脱出するも大陸への亡命がかなわず絶望したベンヤミンが、モルヒネを服毒し、死を迎えるまでの最期の30分が描かれる。朦朧となった意識の中でベンヤミンは様々な幻視や幻聴を体験し、彼らと対話する―「闇に潜む者」(迫害者、あるいは死の誘惑や恐怖)、最期の地ポルトボウに立つという「標識」、劇場の元・看板、かつて身に着けていた靴や帽子、そして過去の自分との時空を超えた対話。これらが、映像・音声と実際の展示物によって、時に寸劇のようなコミカルなやり取りを交えながら、「上演」されていく。観客は、客観的な状況説明から、時空間・生死・人間/非生物の境界を超えて錯綜するベンヤミンの意識の中に次第に入っていき、ラストでは、「歴史の天使」の幻視や超高速で再生される「せむしの小人」の声の幻聴の中に迷い込み、ベンヤミンの遺した思考やイメージの夥しい残像に取り囲まれたかのような体験をする。
 補足すると、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で主張したのは、写真や映画といった複製技術の登場によって、芸術作品に備わっていた唯一性や現前性―「アウラ」が奪われるというものである。そもそも舞台芸術は、絵画のようにモノとして現前せず、「上演・再現」に依るがゆえに絶対的な唯一性を持たないとされてきたが、本作は、ベンヤミンと演劇を架橋するというある種の飛躍を含みつつ、そうした前提を問い直そうとする試みである。
 「演劇は複製可能か?」という問いに愚直に向き合うならば、全てがプログラム化された上演自体は技術的に可能でも、本作での鑑賞体験自体は「複製不可能」であると感じた。それは逆説的ではあるが、映像や録音音声を駆使した「展示形式」という仕掛けそのものに起因する。あちこちに置かれたモニターや展示物に視線をさまよわせ、多方向から聞こえてくる音声に耳を傾けながら歩き回るという鑑賞体験は非常に身体性が強く、その点では複製・代替不可能である。音響や照明による方向づけはあるものの、観客は、視線と歩行の自由さの中で、自分の鑑賞体験が他の観客と共有・交換不可能であることを意識せざるを得ないのだ。
 では、本作の試みを、「演劇を複製する」のではなく、「映像や録音といった複製技術(のみ)で演劇の上演は成立可能か」という角度から問うてみよう。その点では本作は、生身の俳優は出演しないものの、「演劇」であると強く感じた。その要因は、①映像や音声が切り替わるタイムラインの存在、②「見るべきもの」を劇的に照らし出し、私たちの視線を方向づける照明や音響効果による強い誘導性、③字幕・映像と録音音声、あるいは靴と帽子(とアテレコされる録音音声)との間でなされる「対話」の演出、に依っている。とりわけ、③の「対話」が積極的に仕掛けられることで、個々は別撮りされた映像や音声、物体どうしの間に、擬似的な関係性が生じたかのように錯覚してしまうのだ(その点では、ロボット演劇の鑑賞体験と同質である)。
 本作では、こうした演劇的な仕掛けによって、ベンヤミンの「死」が上演された。その理由として、三部作の完結編であることに加え、「俳優の生身の身体の不在」という要因が考えられる。だが、単に「悲劇の死」へと収束させ、ドラマトゥルギーの力に還元するならば、ごく普通の演劇でも可能であるし、あえて「複製技術」のみで構成した意味は希薄化してしまうだろう (生身の俳優による「熱演」の方がより効果的だ)。では本作が、ベンヤミンへのオマージュや悲劇的な死の物語の上演にとどまらず、複製技術を駆使した意義はどこにあるのだろうか。
 ここで、同様に俳優不在の舞台空間、スクリーンの映像や録音音声、主人公の「死」=肉体的不在で構成されるラビア・ムルエの『33rpmと数秒間』(F/T13、東京芸術劇場 シアターイースト、2013年11月14日~15日)を比較したい。この作品では、自殺した革命家の部屋を舞台に、続々と投稿されるSNSのメッセージがスクリーン上に映し出され、ネット上のコミュニティが彼の死の真相をめぐって会話を続け、留守電の音声が再生される。SNSや留守電に続々と積み重ねられる他人の言葉によって「人格」「内面」が(再)構成されていくような不確かさや不気味さを感じさせるとともに、送信者と受信者を媒介しつつ隔てるスクリーンという存在を強く意識させた。また、同じくムルエの『ピクセル化された革命』(F/T13、東京芸術劇場 アトリエイースト、2013年11月14日~17日)では、ネット上にアップされた、携帯電話で撮影された狙撃手が撮影者を撃つ瞬間の動画が分析されていく。これらの作品では、映像を記録し映し出すスクリーンや画面は、送信者と受信者、撮影者と被写体の狙撃手を媒介しつつ隔てる存在であるとともに、「現実に中東を取り巻く状況」と観客を媒介しつつ、その間にある距離を意識させる存在でもあった。
 また、上演芸術と「複製」の(不)可能性の問題を扱った例として、チョイ・カファイ『Notion: Dance Fiction』(KYOTO EXPERIMENT2012、京都芸術センター フリースペース、2012年10月13日~14日)が挙げられる。カファイの作品は、「ピナ・バウシュや土方巽といった歴史的ダンサーの映像をデータベース化し、筋肉を動かす神経信号に還元してデジタル化し、別のダンサーの身体に電気刺激として移植することで、完全な再現やコピーが可能だ」ということを「実演」するというもの。デジタル機器を用いた「複製可能なダンス」という「フィクション」を通して、大文字のダンス史の解体、因果論的な身体観、コピー&ペーストといったデジタル感覚と身体観、個々の身体的記憶、ノイズやズレを孕んだ身体といった様々な問いを喚起し、その先にダンスの可能性や豊かさとは何か?という問いへと改めて意識を向けさせるものだった。
 ここで、本作における複製技術の使用に戻ると、媒介しつつ距離を生み出すというメディアの孕む両義性や社会的影響力、複製と上演(におけるズレ)といった問題意識よりも、「生身の俳優の代替物」としての側面が強かったと思う。本作で感じたのは、複製技術そのものへの反省的思考よりも、演劇という機構が私たちの知覚や想像力に働きかける作用である。ただの物体や映像と(タイミングを合わせて再生される)録音された音声であっても、人格を持ってしゃべっているかのように感じてしまう、そのような私たちの想像力がどこに根差すのか?それを複製技術がどこまで代行できるのか?さらには、そうした想像力を特に疑問視せず、「リアル」とさえ感じてしまう、私たちの知覚そのものに対する問いである。
 ただそれ以上に、鑑賞中に強く意識させられたのは、「舞台上でパフォームしている(させられている)のは、観客である自分の身体である」という意識であった。同じようにうろうろと歩き回る他の観客たちの中に溶け込んだり外れたりして、不安定で一時的な群衆を形作りながら。