回帰と再発見と

 複製技術の演劇とある通り、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を基に演劇の複製可能性を検証する作品。チラシには「俳優のいない演劇」「鑑賞者とのセッション」とある。さらに劇場の壁には本作についての説明文があり、本作のことを「展覧会」と表記している。
 アナウンスや字幕等により観客は舞台上に移動するよう促され、美術館や展覧会のように自由に舞台上の展示物を鑑賞したりしつつ、「ヴァルター・ベンヤミン最期の30分」らしい本作の「劇」の部分が進行する。この「劇」の部分は主に録音された音声により進み、展示物や観客と関連していく。一連の観客の誘導は劇場の規模を想定した上でしなやかであり、過度な自由や強引な強要は無い。しかし音声による劇の進行や照明の変化などによってゆるやかに誘導されており、観客の動きをある程度予測した上でのつくりになっている※1。観客に作品の構造上の大きな比重が置かれていることがわかる。
 そしてそれは上演毎の観客により受け取り方の空気感や作品の質そのものが変容するということだろう。観客が作品の中心に来ていることに気づくに至り、複製演劇というものの概念やベンヤミンの思想、作り手の思考へ行き着く。
 複製技術の演劇であるため無俳優で、録音された音声、録画された映像、展示物、照明等により作られた演劇だ。複製可能なものは全て複製したのちに、観客だけが残った。例えばそれは、ある意味での純粋演劇とでもいうような演劇固有のもの以外を削ぎ落とした結果の一つの形かもしれないと。とすれば、ここまでの観劇感も説明できる。例えば、アミューズメントパークでのアトラクションにみんなで参加した時の空気にやや似ているのだ。あるいは近年一部で盛り上がっているリアル脱出ゲームでもいい。その場限りの参加者たちとともにゆるやかな指示と自由のもとに劇を体験し、場と時間を共有する。この考えをさらに飛躍させるのならば、お祭りなども同列に語れるだろう。そしてお祭りまで辿り着いてしまえば、祭祀や儀礼も含めた原初の演劇を想起する。
 演劇の複製可能性を検証した結果、複製不可能な部分が残り、それは演劇の持つ根源的な特性であった。と、作り手の演劇実験と思考を辿り、気づきへ導かれ、知的な興奮を覚えた。※2
 ベンヤミンは芸術の礼拝的価値に縛られない新時代の芸術形態を思考したようだが、今日のこの作品においては近代演劇の観劇形態に縛られない同時代の形態を志向しているのだろう。ここ数年、一部の野心的な作り手たちにより、本作のような観客の体験感を重視した、参加型ともアトラクション型ともいえる作品がつくられている。今日、それこそ複製技術の隆盛とともに演劇を志向する根拠そのものが難しくなっている。他の表現ジャンルでも可能なことをあえて演劇でやる場合の、演劇である必然性の希薄化。
 そんな中で、音楽家たちがライヴを最重視し始めたように、演劇を志す者が体験や場を重視し始めたのは自然の流れだろう。仮に全て同じ観客で再演したとしても、観客各人のその日の心身の状態により、何らかの差異は生まれるはずだ。そしてそこにこそ、二度とない時間といえる、一回性のアウラが残されているという考えは頷ける。※3


※1
例えばモニターなどに、ベンヤミンの動きとともに観客の動きのト書きのようなものが映し出されるのだが、<現在>の観客への指示・誘導等だけでなく、観客が数分前に行った(であろう)動きのト書き<過去>や、クライマックスにおいて観客がそう行動するであろう内容<未来>が予測され、書き出されたりしている。そして事実、多くの観客は図らずもト書き通りに動いてしまっていたというようなつくりになっている。これらにより、嫌味でない形で、文字通り観客を作品に取り込んでいる。
また観客に対すると思われるト書き等(便宜上、観客へのト書きと表記)は観客のことを「闇にひそむ者」と一貫して表現しており、作品への取り込みとともにト書きの直接性の緩和も行われている。劇中の内容と思われるト書きも「闇にひそむ者」の行動などについてだ。さらに、観客たち、ベンヤミン以外の第三者の存在さえも想像させられ、作中のベンヤミン同様、不可思議な場所へ迷い込んでしまったように感じさせる。

※2
作り手の思考をなぞるつくりのためか、実験検証レポートとしての側面も感じたがこれは作品の射程が極めて広いからともいえる。複製演劇と銘うちつつも、単純に複製可能な演劇を作ろうとするのではなく、複製演劇の可能性と不可能性の両方を見せるという、ある種両義的な作品にもなっているのだ。(これは題材たるベンヤミンの『複製技術時代の芸術』自体が両義性を孕んでいるからではと思う)

※2・補足
演劇の複製可能性の検証<本作の理念的な部分の趣旨>→演劇におけるアウラの中心たる俳優(複製不可能)をなくす。かといって映画等などではなく舞台で「演劇」として作品を<演劇の定義・俳優の存在や演技についての捉え方>→観客に注目、観客参加型の展覧形式の作品(しかし美術館とは違う形)<演劇固有の特性>→その場限りの観客たちによるその場の空気感<残された一回性のアウラ>→複製時代の演劇のあり方と可能性の形としての観客参加形式の劇<この作品での到達点>+ベンヤミンの半生と最期をモチーフとした劇と展示物
これらの思考とその都度の本作においての到達点を追いかけねばならない。
知的な作品であり、作品への取っ掛かりが多数あるにも関わらず、事前の説明が少ない点に関しては困難も感じた。

※3
蛇足だが、世阿弥の「風姿花伝」において、その時の観客や場の空気などにより表現を変化させる、というようなことを書かれていたのを思い出した。完全な再現よりも観客や空気に合わせ多少は調整するという思考。これもまた演劇の一回性の捉え方の一つであろう。