重層する生/死の世界と、重奏される死者の「声」

 2011年、劇作の田辺剛自身による演出で上演された『あの小舟ならもう出た』。今回は、トリコ・A・プロデュース主宰の山口茜の演出により、『舟歌は遠く離れて』という新たなタイトルで上演された。田辺の戯曲は、彼岸と此岸、2つの領域の間を結んで行き来する「舟」という象徴的な装置を舞台に、生者と死者の世界が次第に混交していく寓話性の強いものだが、山口の演出によって作品世界により奥行感が与えられた。それは、発話される「声」への着目による。
 物語は、敗戦した故郷「東の国」を去って、「西の国」に向かう人々が乗った船室内で繰り広げられる。狭くカビ臭い船室に、若く実直そうな兄妹、世渡りの苦労と諦念を漂わせる姉妹、挙動不審で自己中心的な男の5人が共同生活を強いられる。ただでさえ息苦しい船内では、もうけ話の勧誘、物盗りやケンカ、エンジンの故障など絶えずトラブルが起きるが、船員はマニュアル通りで誠意の感じられない「お詫び」をロボットのように繰り返すだけ。そうした現世の喧騒と欲望を凝縮したような船室の階下では、倉庫に女の死体が横たわっている。階上の船室=現世に苦痛を感じる若い妹は、一人で階下=死者の世界に降りていき、女の死体と会話する。死体の語る言葉は、預言者か哲学者めいた響きを持つ。こうして生と死の世界の境界が混ざり始め、登場人物たちは一人、また一人と殺人や事故で死者の世界に入っていく。
 ここで、「死者」は「頭や胴体など身体の一部分(死因に関係する箇所?)に木枠をはめる」という身振りで分かりやすく表象される。だが山口の演出で興味深かったのは、そうした視覚的な仕掛けに加え、セリフとそれを発話する身体とを分離させる手法である。この音声と身体の分離・ズレは、劇中の様々な場面で効果的に用いられ、登場人物の置かれた状況説明を音響的に増幅していた。例えば、冒頭の乗船場面での兄妹のセリフ。希望に満ちた言葉を投げかける彼ら自身は口パクで、別の俳優によって発話される。本来の発話者からその「声」を奪うことで、故郷を離れた「移民」である彼らの存在が、喪失とともにあることを強く印象づける。また、型通りの「ごあいさつ」「お詫び」を慇懃無礼に繰り返すだけの船員の言葉は、録音された声が機械的に再生されることで、彼らが管理社会の一員であることが強調される(さらに、「故障」したブツ切れの音で再生されることで、管理社会の歪みや軋みも暗示される)。
 では、そうした「移民」「管理社会」の声に対して、「死者」は「声」を持つのだろうか?持つとしたら、その「声」はどのように発話され、どのように響くのだろうか?階下へ一人降りた妹と女の死体が最初に出会う場面。死体の「声」は、床に横たわった身体からではなく、他の俳優たちのユニゾンによって発話される。年齢も性別も混沌と入り混じった集合体としての「声」。物語のレベルでは、登場人物が皆やがて死者の仲間入りをすることを暗示する仕掛けであるとともに、より抽象的なレベルでは、死者の匿名性、つまりこの名前もない死体は誰でもなく誰でもありうることを示す。
 中盤では、死体は口パクで、録音した声にエコーをかけて再生するという方法が採られるが、終盤では再び、死者の「声」は他の俳優たちによって発話される。(死んだ)乗客たちが皆、救助に来た「新しい船(あの世?)」に移り、一人船内に取り残された妹は、再び死体と会話する。「身体が重くてまったく動けない」「わたし、もっとあなたとお話したい」「あなたの住んでいたところのパンの焼き方を教えて」「わたし、いつか、パン屋をひらきたい」。生と死のどちらにも属さず、この世とあの世の狭間で不安定に漂うこの「船」に残され、最後に妹と死体が交わす会話は感傷的に傾くおそれもある。しかし、他の俳優たちによるユニゾンと、次第にユニゾンが解けて口々にしゃべるという演出によって、発話主体や生死の境界が曖昧に揺らぎ、安定性が崩れていく不気味さが勝って感じられた。
 固有の「声」を奪われ、匿名的存在となった死者。そこには単数も複数もない。一方で、俳優が自らの身体を媒介とすることで、今ここにいない存在、声なき存在に一時的に肉体と声を貸し与えて召喚・実体化させるプロセスとしての演劇。ブツブツと呪詛のように呟かれる「声」の重なりの中に、その両方について考えさせられたラストだった。