死者の夢

 2011年に上演された「あの小舟ならもう出た」(田辺剛作・演出)という作品のリメイク再演。再演にあたり今回は山口茜が演出を担っている※1。
 旅立つらしい兄妹が乗った船の中の船室でのお話。兄妹は狭い船室で、別の姉妹や詐欺師風の男と相部屋となり数日を過ごすこととなる。これら人物と横柄な船員らによる奇妙な人間関係や揉め事(死人が出たらしい)などが会話劇調で進行していく。群像劇的でもある。
 船底の死者とやり取りをする妹、エンジントラブルにより何日も止まっているらしい船、船底との間の穴に挟まってしまう兄やそれに対する妹の行動など、自然主義的な現実主義に基づいて書かれている戯曲ではないことがわかる※2。
 同時進行したりもしつつ、アフレコ分割台詞※3を発する役者。また追加された多数のメタファー※4。情報量が大きく増え、抽象度も増す演出だ。難解な作品となっているのであるが、シアトリカルな面が強化されたとも感じた。
 これは戯曲の手触りを素直に演出にのせた結果、戯曲のもつ特徴が強く出たのではないだろうか。説明しにくいが、抽象的で不確かな構造的個性を持っている戯曲であるように思う※5。それは「動いていない船」という場に見事に現れている。船が動かなくなって数日も経過し「波にまかせて海を漂うだけ」と言われるが、遭難しているのか?もしかしたら始めから港から動いていないのか?などと思えてくる。船室からは窓がなく、甲板にも霧がかかっており外界がわからない。時間感覚までもぼやけているように感じるのだ。「ここはまるで迷路だ」という台詞が自己言及的に響く。我々の現在に対する暗示でもあろう。
 リアリティのありかがよくわからず感情移入できない、説明はあるが不明確な人物たち、不条理な人物たちの行動、それらが真面目に進行する。誤解を恐れず言ってしまえばある意味で破綻スレスレといえる。仮に、いわゆるリアリズム演劇での演出でアプローチしたならば齟齬が目立ち成立し得ないのではないか。
 だがこれは神話のドラマツルギーともいえるだろう。何故?と思うようなことさえ当然のごとく進行していく、そういうものなのかもしれないとなんとなく納得するしかない霞がかったような話。そして単純な理解を拒むからこそ、読み減りせず、語り継がれる。そういう近代自然主義とは全く違う想念が確実に介在している戯曲である。だからこそ演出はそういった部分に敏感に反応し、より抽象的な形に演出したのであろう。
 神話は神々たちによる世界や人間、国などを創り出す壮大な話だが、この作品はどうだろう。妹は最後に「いつかパン屋を開きたい」とここに来てようやく未来を語る。これまで、追い出されるように欲にまみれた土地を出たと船旅へのぼんやりした経緯は語られてきたが、初めて海を渡り故郷の地の村へ、とは言うものの具体的なものが感じられなかった。そして霧の中動かない船。不確かさばかりが目立つ。移動のための乗り物である船に乗っているのに、過去、現在、未来のすべてがぼんやりしている。しかしようやく「パン屋」という具体的なものへ到達した。
 しかし妹は死体の女と寄り添い語っている。妹もまた死んでしまい、死体の女のようになっているのだろうか。この死者という要素も演出により補強されている。アフレコ同時進行によりその場面にいない役の役者や劇中で死んでしまったらしい役の役者も舞台上に出入りし、死者に囲まれているような雰囲気さえ感じる。だがそれは、我々もそうでないとは言えないであろう。人の生は、死や死者とともにあるはずだ。そして我々もいつか死者となる。
 「終わりのない迷路を彷徨っているみたい」な現実の中で、死者(=かつて生きていた者たち)に囲まれていた。しかしそれらは別段否定的に描かれてはいないのだ。


※1
初演時より大胆な演出の変更があったことが作品として明確に提示されている。

※2
やや文語的な台詞による会話劇の体裁と人間のすれ違いをしっかりと描くことなどによりある種のリアリズム演劇風にも読めるであろう戯曲だが、特徴的なタッチで、もしかしたら不条理劇やナンセンスコメディーとも取れる可能性も感じる。

※3
例えば兄がいる場面で、兄の台詞を別の役者が発するという舞台上でのアフレコとも人形劇とも見える特殊な台詞の割り振り。本来その場面にいないであろう役の役者が舞台上で発したりする。複雑な多重構造。

※4
死者が脱ぐ靴と赤い服、切られ続ける白い布、首にかける額縁等。
もともとメタファーの多い作品でもある。例えば、船底との間に挟まった兄を助ける妹は、上の船室から引っ張り上げるのではなく、船底側から兄を引っ張り下ろそうとする(が、届かずジャンプを繰り返す)。船底=死者の世界、だとすると、瀕死の兄を死者の世界へ取り込もうとしているかのように見える。ただ重要なのは、理由→行動の間に不条理な要素が差し挟まれる点だ。この例で言うなら、上から引っ張ればいいのに不条理にも下から引っ張り下ろそうとする、しかも手が届かない。上の船室は嫌であると語られるが、瀕死の兄を前にあまりに不条理。兄がこの状態になる経緯も不条理であったが、さらにこの後、兄の垂れ流す糞尿をプライパンで受け止め始める。どう考えてもまともなリアリティで動いていない。

※5
どんどん現実感が不鮮明になっていく形のテキストだと思われるが、文語調気味の会話劇+群像劇の形態を崩さないため、現実→不鮮明化→抽象とストレートに行かず、霞がかったような観劇感を覚える。