同じ舞台美術で2つのカンパニーがそれぞれ作品をつくる。
共通の美術はタイトルにもあるように「家」である。家は真っ白で入り口のみがあり、出入りの出来るものである。犬小屋を大きくしただけのような簡略化されたシンプルな家であり、「家」という記号であるといえる。結果「家」のもつ属性が際立っていく。

○ITTAN  <双子の未亡人>
演出・振付 双子の未亡人

記号から現実へ

本作は「内と外」という家のもつ属性の中でも社会性を強く感じさせる内容となっていた。使われる音も、車の音や雑踏、水滴(雨-外界を連想させる)と、家の外側にある環境音を用いて観客の意識を屋外へ向けながら、2人のダンサーはゆっくりと動き出し、始まっていく。そんな中での家にもたれかかる動きなどは、私的なもの(家)への愛執であろうか。
 しかしそこで私的空間に閉じ篭らず外へと開かれていく。2人が同じ振り踊る場面はいくつかあったが、興味深かったのは、一方が家の中で踊り(家の入り口から身体の一部だけが見える)一方が外のエリアで踊る部分だ。
ここではゆっくりと始まっていた動きは段々と早く軽快になっており、同じ振りを家の中と外で踊ることにより、やっていることは同じでも見え方は全く異なってくる。一人の人間の多面性、人の生活の各場面における多様性と見える。これは、「内と外」という観点を拡大し、「公と私」へと発展している。複数人で同じ動作をすることにより、結果的に個が主張される作品はよくあり、それは個々のダンサーの身体の差が浮き立つことを基点とする場合が多いが、ここでは記号化された「家」を用いることにより、人間の社会における場面の違いというところへ行き着いていると感じる。ただの個ではなく個を内包した上での社会性を獲得した表現だ。そしてそれは、普遍的な表現足り得るといえる。この雑踏の中にいる全ての人に家があり、そこにはその人が社会では見せない(外からは見えない)部分があり、それぞれの人間が個別の背景を背負って生きている。そういった当たり前ではあるがかけがえのない人の存在のようなものを感じた。
 ダンス、音楽、空間ともにゆっくりと膨張したのち、凝縮されていった。約30分の小品作品ではあるが、密度あるまとまった作品だった。


○スモールハウス  <schatzkammer> 
振付・演出 夏目美和子

She a Contemporary

 「家」の持つ属性の私的空間という部分を観念化し、人物の内面のありかとして男女の物語に取り込んだ作品。
 主人公と思しき女が、閉じこもり、寄り掛かり、塞ぎ込むのはいつも家によって行われ、女の内面の表象のような2人組の妖精(?)が現れるのもまた家からである。手紙を送る際にはポストではなく「家」のミニチュアに手紙を預ける。文字通り自分の気持ち(内面―家)を届けるように。そして待ち人らしき男がやってくるのは家の外からだ。男は家に入ることも触れることもない。家は観念化した上で大変明確な扱いとなっている。
 その明確さは作品全体に貫かれる。物語要素を強く押し出すことにより良い意味でシンプルに観れることが出来る。妖精と女の絡みやダンスでの対比になどよって、はっきりと女の心情や物語展開を追いかけやすいつくりになっているのだ。妖精と女が踊る場面などは、迷いや揺らぎが表現される一方で、コミカルかつ快活にデフォルメされてもおり解放感もあった。ここでは一部のダンス作品の持つ不必要な難解さや矮小な私小説感はない。「家」を私的空間―内面の象徴として扱いつつも、個人史的にはならず開かれた作品となっている。ただ男を待つだけの女をやめ、主体性を獲得する近代以降の女の物語だ。
男は女のもとへ行き手を伸ばすが、女は男の手を取らない。その後男も妖精も消え、女は家を出て行く。ここでは、激しい情緒の発露はない。ダンスらしいダンスが減っていく。段々と静かに進行していく。ここまで物語を丁寧にガイドしてきたにも関わらず、ここでの女の心象は観る者に委ねられる。この部分はシンプルではない。この辺りが、本作が同時代の女の物語となっている所以だろう。(ダンス、主題、劇構造ともに)クラシックバレエ等の物語ダンスの現代の女版と見るのは大げさだろうか。
 最後に女は1人、家を離れる。手にはトランクを持っている。男が大量の手紙を入れていたのもトランクであった。この女のトランクには何が入っているのだろう。何をトランクに入れて「家」を後にしたのだろうか。