否定形モノローグ

 ドアや窓の「枠」のようなものだけが壁際にいくつかと舞台中央の中空にある。カメラを持つパフォーマーの存在により、これらの枠はフレームや額縁とみるべきとわかる。多数の額縁とヒマワリがただずむ舞台。スタイリッシュな舞台空間が創られており、作り手の美意識を感じさせる。
 額縁―絵画や写真―過去の場面の切り取り、と考えられる。それを裏付けるようにパフォーマーたちは何かの出来事を語っている。おそらく空っぽの額縁の中に納まるべきである人物の過去の出来事や記憶を複数のパフォーマーが語っているのだろう。
 小説を分割して語っているともとれるが、テキストの変質には注目するべきだ。始めは丁寧な情景描写とともに語られるが、段々と内面の吐露など心情の描写になっていく。こうなると小説ではなくモノローグを分割しているといえる。※1
 この、「モノローグ性」や「興味の対象が内向き」である部分などは近年の演劇の比較的若い作り手に時折見られる傾向のように思う。同時代の作家としての感性だ。
 一方で、長々と記憶めいたものを一人でしゃべった後で「嘘だ」「そんなことなかった」と自らの発言を否定する。テキストの分割と相まって観方が難解となる※2。まるで観客を撹乱するためかのような作りだ。本作の公式サイトでの、いきなり見せられてもよくわからない映像作品や作中のあまりにも耽美な音楽からもわかるように、意図的に撹乱を行っている。
 謎かけを行う一方で単純な理解を拒んでいるともいえる。額縁、枠、カメラ、ヒマワリ、といった舞台上ものへの台詞での言及は、ほぼない。舞台上の事物と言葉の関係が直接的でない場合が多い。
 つまり「詩としての演劇」※3と謳っているが、言葉を追いかけてはいけない作品なのだ。言葉ではなく舞台の変化を見なければならない。
 男が別の倒れている男を立ち上がらせる。それは別の場所でも行われ、2組の男女のカップルと1人の男という形が出来る。しかし倒れていたカップルの男はまた倒れてしまう。男はそれを立ち上がらせる。するともう1組の方の男が倒れる。男はその男を立たせる、するともう一方が、というのが繰り返される場面がある。印象的な場面だ。今日の男性性の確立の困難さや恋愛の成立の不可能性、あるいは台詞でも臭わされている悲恋を舞台で象徴的に表している。そして、この間は無言である。これら動作が作品の核であることは疑いようがない。
 最後の場面で、舞台は白い布で覆われ、中空の額縁とヒマワリ、男女1名ずつが残る。受け手を惑わす要素がなくなった静謐な空間。女は壁際に張り付く男へ近づき、抱きしめようとするが、男は倒れ女一人が残される。中央の額縁からヒマワリだけが見える。もちろん、ここもまた無言である。
 大きな物語は失われ、自身を掘り下げる方向で作品を望むが、少し誤れば饒舌で矮小な自分語りにしかならない。故に、私的であるが間接的、という迂遠な形となって現出する。それでも表現を志す、そんな今日の若者の作品制作の困難さへ立ち向かった作品のように感じた。
 空っぽの額縁の中に飾られていたものもまた、無言のヒマワリ。


※1
いわゆるライトノベルが、(アニメ等の脚本のように)情景描写の省略とともに会話文が増えていった変化と比較すると興味深い。近年盛り上がりを見せたジャンルであるとともに、ライトノベルの作家たちは若い作家も多くいるため、同時代の表現としての比較として。
また一部ライトノベルの「脚本化」は、ライトノベルとアニメが隣接ジャンルといえる関係になっているだけでなく、ライトノベルの商業展開として、メディアミックスによるアニメ化、ゲーム化がヒット作にはほぼ必ず用意されるという、作品の各メディアへ展開のあり方が影響している点には留意すべきだとも思う。

※2
「役=役者」の同一性の保持を行っていない上でのモノローグの分割、さらに否定形が多い、となる。言葉による情報への距離のとり方が大変である。

※3
同カンパニー公式webサイト等より