傍観者の欲望と悪意が積み上げる「城」

 構成は極めてシンプルだ。場面設定は一貫して見晴台のような高台で、そこに代わるがわる登場する数人の男女の会話シーンを通して、かつてこの眼下に存在した/今も存在している「魔王城」について様々に語られる。
 彼らは皆、実際には「魔王城」に行ったことがなく、安全な高みから見物してあれこれ言うだけの傍観者たちだ。彼らの話を繋ぎ合わせて総合すると、話題の中心となる「魔王城」とはどうやら、元々は温泉施設であったのが、カラオケやボーリング場などが併設されてどんどん膨れ上がり、一つの町全体が巨大な娯楽施設に変貌し、無法地帯となってドラッグや売春が横行する「魔都」と化したものの、燃え落ちて今は平和な公園になっているらしい。そこに、バブル崩壊を経験した都市の盛衰の歴史を重ね合わせることも可能だし、カジノ構想を打ち立てる大阪の未来像であるのかもしれない。
だが、「~だったらしいよ」と伝聞体で言われる会話の真偽は不確かで、時系列も曖昧だ。それぞれの目に映る「魔王城」は、ある者にとっては悪徳の栄えの象徴であり、それが故に好奇心を刺激する魅惑的な場所であり、平凡な住宅地や武器工場に見えたりもする。あるいは、自らの悪徳の罪を背負うかのように業火に燃える姿であり、家族やカップルが憩う公園である。つまり、「魔王城」とは、実体としては存在しないが、眺める者の欲望のあり方によって姿を変幻自在に変え、あやふやな伝聞や無責任な願望の不確かさの中にこそある、危うい存在なのである。
 ここで気になるのは、一見フツーでくだらない噂話のような会話の中に、欲望のはけ口が見つからない苛立ちをぶちまける退行的な暴力性が顔を出し、若者たちが突然キレ気味の口調で激昂することだ。彼らは徹底して傍観者であり、自分では行動を起こして現状を変えようとしない代わりに、他人がその欲望を引き受け、代行・成就してくれることを望んでいる。あるいは、迷い人や初デートのカップルを、安全な位置から無邪気に傍観し、「キョドってる」「もっと楽しませてみろよ」とあざ笑い、退屈を紛らわす。そうした欲望の行き着く先は、おそらく、最大の見世物としての死や破壊だ。あるいは、「魔王城」を焼き尽くす業火や武器工場を見出す者は、「この世の全てをリセットしてほしい」という破壊衝動を抱くも、現実を変える力を持たず、他者による代行を期待する。こうした「欲望の代行装置としての魔王城」は、実体を欠いたまま、無責任な傍観者の願望を糧に想像の中で肥大し、さらなる閉塞感や苛立ちをもたらすという悪循環が積み重ねられていく。
終盤、劇作の合田団地自身が登場し、「魔王城なんてなかった」と覆す。これは、神として劇世界に君臨し、(半ば強引に)幕を下ろす作者という存在による物理的な力の行使、あるいは、(観客の予感をあっさりと肯定する)タネ明かしに思えるかもしれない。だが重要なのは、「僕らは、魔王城の話をしている時、魔王城なんて『ない』と思っている。それはとても現実的だ」「嘘を前提にしている限り、魔王城は『存在する』」というくだりである。これは、演劇やフィクションへのメタ的な言及としても捉えられる(ブロックで「積み木の城」を文字通り舞台上に積み上げて退場することが示唆するように)。のみならず、圧倒的な情報量を前にしては傍観者になるしかない私たちが日々吐き出す、無責任な発言や憶測、欲望の転嫁、不満のはけ口が、実体のないもの(噂、誹謗中傷)をあたかも実在物であるかのように存在させ、匿名で書き込めつぶやけるネット環境によってその状況が加速度的に肥大していることのメタファーとして受け取ることができる。そこに本作の批評性を見た。