後退する現実感と対話への距離

 役者たちは舞台から客席を見下ろす視線で、「魔王城」と呼ばれる街の中の建物について話をする。時間経過による魔王城と街の変化が人々の様々な思いとともに語られていくが、のっぺりと手ごたえのようなものを感じにくい場面が続く。それは登場人物たちが語る魔王城についての話が伝聞や憶測のみであり、なんら実態を感じられないからだ。魔王城が街全体に影響を及ぼしているらしいが、それも台詞によって不確かな情報として語られるのみで、魔王城や街の変化が彼らに具体的に何らかの作用を起こすこともない。
努力クラブの作品は「2ちゃんねるっぽい」と評されることがあるらしく確かにネット掲示板に近い感覚を感じる。
 しかし街を一つ巻き込むほどの出来事で、長期間にわたり噂が飛び交っているのならネット掲示板であれば、現地に居住する者やその知人などから実体験を伴う具体的な情報が出てくる(もちろん偽の情報も多いだろうが)、あるいは現地に赴き情報を収集しそれをネット掲示板等で報告する者が現れる。あれほど話題に上っておりながら魔王城に対するアプローチが、高台から眺めながら噂話をするのみなのだ。
ならばここで描かれている人物たちは、現実との関わり方においてネット掲示板のそれよりも後退していると言えるかもしれない。それこそネット掲示板であれば予期されうるツッコミ「(その情報の)ソースは?」と返されるであろう不確かな内容ばかりだ。
 真偽不明な情報に終始する会話が続けられ、この人物たちが精神に異常を来たしているのでは、と疑いたくなるが作品の注意がそこに帰着しないのは、登場人物たちに対して作り手が真実めいたものを感じているからであろう。おそらくこの不確かさこそがこの作り手の感じている現実なのだ。
それはオムニバス形式で進行することにより助長される。場面ごとに登場人物が入れ替わるため、人物個々人への積み上げが起こらない(※1)。積み上げが起こらないばかりか、登場人物たちの背景は全く語られない。魔王城に興味を持っているらしいという一点以外は、個人名はもちろん各々の関係性もおぼろげだ。ここでもネット掲示板よりも後退した現実感(※2)が描かれるとともに、相当に引いた視点から作品を見下ろす位置が観客に与えられていることがわかる。
それはかなりの閉塞感である。しかしここに至って、不確かな現実と閉塞感、というもやもやするものによってではあるが、ようやく舞台と観客は同期することが出来る。
 最後の場面で合田団地(作・演出)自身が登場し、箱馬を積み上げ簡素なオブジェ(魔王城?)をつくり、やや笑う。もはや魔王城などという大仰なものは描くことは出来ないという不可能性のくどいほどの表明だ。
 だが最後の場面において重要なのはそんなものではない。本作についての自己言及的なこの場面では、無対象の演技はなくなり相手と向き合って話をしている。自作の反省会のようなこのやりとりにおいて、ようやく対話を行うのだ。さらに虚構についての煮え切らない会話の後「なんやねん!」とここでもようやくツッコミ(もちろん作品そのものへのツッコミであろう)を入れられる。
そして、最後の最後に簡素なオブジェを「積み上げる」のだ。

※1
6月9日のアフタートークにおいて、唐突に「エヴァンゲリオン」が話題として挙がっていた。そういえば、エヴァンゲリオンブーム当時もエヴァンゲリオンの主人公の碇シンジは「レベルアップ(積上げ)しない主人公」として解読されていた。

※2
ネットの匿名掲示板であってもトリップやIDなどによりある程度個人を識別できるようにすることは可能であるし、それによる情報や関係、時間、変化の積み上げも起こる。