死にゆく身体と、かくも鋭敏な感覚の覚醒

 開演とともに、客席と舞台を文字通り遮断していた白い幕が勢いよく落とされる。中央にヒマワリの花と、フレームのように吊るされた木枠がいくつも置かれた舞台上には、3人の男優と2人の女優が佇む。1人が、厳かに独白を始める。「もうこれからは、何も語ることはないだろう」。その宣言とは裏腹に、5人は代わるがわる、詩的で静かだが饒舌な独白を紡いでいく。ある場所の描写、そこで体感した波の感触やアスファルトの冷たさ、そうした感覚的刺激が引き金となってもたらす意識の変容…「~だった。」という過去形の反復が生み出すリズム感とともに、次第に、時空間が自在に伸び縮みするような感覚に陥る。「~だった。」は過去の回想であれ夢の記憶であれ、「今ここではないどこか」を指向し、時空間を移動するような感覚を与えるのだ。
 だがそれは混乱や不安感ではなく、心地よさが身を浸す。言葉で紡ぎ出される情景を映像として想像するというよりも、その中に身体ごとトリップするような感覚。圧倒的なボリュームの言葉の連なりを聞いているうちに、視覚、聴覚、触覚、嗅覚…様々な感覚がみずみずしく開け、外部世界との感覚的繋がりが開示されていくような錯覚を体験するのだ。独白の締めくくりに何度も繰り返されるように、それは「嘘」だ、「錯覚」だ。だが嘘だからこそ、こんなにも心地よく、優しい。四つん這いで犬のように歩いてみる、夜の冷たい海と暗闇に全身を浸らせる、風渡るキャベツ畑で寝転がり土の感触を感じる…みずみずしく敏感な感覚の獲得・開発はそれだけでも十分エロティックだが、しばしばその必然として、性的交歓へと向かう。
 独白を担当する俳優も、脇や背後に佇む俳優も、身体的な動きは抑制されている。だがその「静」の中に、ストーリーを説明的になぞって物語へ奉仕するのではない、半ば自律した身体の相が立ち現われてくる。発語される言葉の波やリズム、テンションの緩やかさ/激しさに呼応するように、スローダウン/激しさを増す、感覚がマヒしたように立ち尽くす/感情を発露させる身体。そうした俳優たちの身体のありように応じて、木のフレームは、人体を絵のように切り取って固定化させる絵画の額縁/外の世界を透かし見る窓枠/身体を横たえるベッドへと変貌していく。ベッドは夢想の宿る場や性愛の場であるとともに、死を暗示する。そして、独白の主は、暗い部屋でただ一人、死を待つだけの朽ちていく身体であることが語られる。カビくさく淀んだ空気、死臭の漂う閉ざされた部屋の中、ただモノのように横たわる「死にゆく身体」にあって、かくも鋭敏に覚醒している感覚。
 そこに外部性・社会性を見出すことは困難だ。設定自体も、文字通り閉ざされ外部のない部屋であり、度々発語される「インポテンツ」という語は、感覚の遮断や喪失を示唆すると考えられる。だが、デの本作は、自閉のベクトルを極め、意識や記憶の中へ深く潜行することで、逆説的に豊かさを獲得しようとしているのではないか。そこで発語され続ける言葉は、役=俳優の同一視という通常の約束事からも、当事者の経験やリサーチに基づくドキュメンタリー的な語りからも解放され、性別も関係性も生死も夢か現実かも曖昧なまま、観客は、言葉によって喚起される感覚や記憶の回路を自らの中で生成し、別の回路と接続させ、磁場のような言葉の響きの中に身を置く快楽を享受すればよいのである。
 そうした豊かさの発露が、書かれた言葉の持つ力と俳優の発語による響きとの相乗効果を通して可能であることを、デの本作は証明しようとしている。